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2015年07月06日

【小説】その瞳に写るもの 56

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無数の糸がまわりに張り巡らされ、
わずかな動きでそれが切れて爆発してしまうような状態だ。

小さな物音がしただけで肌があわだち、こめかみから冷や汗が流れる。
音の出所を確認して姿勢をもとに戻す。そうした動作を何度かつづけていた。
事態は膠着したまま時間だけがすぎていった。

やがて、一組の男女が現れた。

中年男と派手な服装をした若い女だ。
男はべろべろに酔っ払っているのか、女に支えられながら千鳥足でこちらに歩いてくる。
怪しまれてはまずい。カメラを地面に置いて上から袋をかぶせて隠し、ニット帽を脱いで通行人を装う。
不審な目を向けながらもふたりは俺の横を通りすぎていった。
ひと息ついて態勢を整えなおしたそのときだ。

不意に、後ろから肩を叩かれた。

液体窒素にいれた物体のように一瞬にして背筋が凍る。
気のせいや触覚の異常などではない。人の手の温かみがそこにある。

俺は振り返るころあいを見失い、ただただ立ち尽くしていた。

だが、藤原さん、と呼ぶ声がしてある結論にいたる。
よく考えれば分かることだ。あいつがそうやすやすと感興を抑えられるはずがない。

ほんのわずかでも――春花を信用した俺が馬鹿だったのだ。
俺は肩にかけられた手をつかんで思いっきり強く引きよせた。

彼女に抵抗する間もあたえずに抱きかかえ、手で口をふさぐ。
あと数センチで顔と顔が触れあう距離で、騒ぐな、静かにしていろ、大きな声を出すなと呟いた。
春花は目を大きく見ひらいて頭を上下に揺らした。

口から手を離し、そのままの状態でなぜここにやってきたのかを聞いたが、
沈黙したままで答えてくれない。

春花は俺と目を合わせず落ち着かないそぶりをしている。こころなしか顔も赤い。
なんとなく雰囲気を悟り、俺は彼女の拘束を解いた。
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posted by c-book at 21:16| 【小説】その瞳に写るもの