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2015年07月06日

【小説】その瞳に写るもの 58

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理屈では説明のつかない感覚だが、振り返るとそれが正しいことが分かった。
春花はその姿を見て驚愕の表情をうかべていた。

俺だって本当は開いた口がふさがらないという形相をしたい。
しかし、急転直下という状況の中で冷静さを失えば、布団の上で目覚める結末をむかえるだろう。
全身に強い痛みをともなって動けないほどの状態でだ。

地道な聞きこみと探偵みたいに推理をめぐらせてここまでやってきたにも関わらず、
たったひとつの不確定要素のおかげで犯人を取り逃す刑事のようだ、
と自分でもよく分からない妄想をしてしまう。

いっそのこと春花と恋人のふりをしてやりすごす方法も考えたが、
この人には通じないどころか激怒されて何をされるか分からない。

脳内の秩序は乱れていて整理がつかない。だめだ、落ちつけ。
相手がだれであれ目の前に立たれている時点で敵なのだ。

恵子さんであればまだ良かった。
着物では走りづらいため、逃げ切ることはたやすい。

だが、相手は男であり、普段の様子からはとても想像できない、
尋常ではない凄みをかもし出していて、拳をぱきぽきと鳴らしているのだ。


春花は必死に苦笑いをつくり、消え入りそうな声でお父さん、と呟いた。


「藤原様、このようなところで何をなさっているのですか」

声色や垂れ下がった眉は、いつもと変わらず穏やかだ。
それが、余計に恐怖をさそう。

「て、天気が良いですね。星がきれいだ」苦渋の言葉が口から漏れた。
「そうでしょうか。曇っていて何も見えませんが」

空にはあいかわらず重厚な雲がどっしりと構えていた。星も月も希望も見えやしない。

俺は春花に、どうして元哉さんが仕置き人だと言っておかなかった、と目配せをする。
彼女は両手を顔の前で合わせる仕草をした。

ごめんなさい、という合図だと思うが俺には、おとなしく成仏してください、に見えた。
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posted by c-book at 21:22| 【小説】その瞳に写るもの